後嵯峨上皇の意志により文永五年(1268年)立太子、同十一年(1274年)亡き上皇の意向を継いで亀山天皇から譲位を受けて8歳で即位。亀山上皇による院政が行われた。
治世中には、元・高丽军による元寇、いわゆる文永・弘安の両役が発生した。
弘安十年(1287年)、後深草上皇が、自分の血统(持明院统)ではなく、弟亀山上皇の血统(大覚寺统)が天皇になったのを不満に思っていたので、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子・伏见天皇に譲位した。以後、持明院统と大覚寺统による皇位の争夺に対し、调停策として出された幕府の両统迭立案に基づく皇统の分裂が続く。
长子である後二条天皇(94代)の治世、正安三年(1301年)から徳治三年(1308年)まで院政を敷き、持明院统の花园天皇を挟んで、もう一人の皇子後醍醐天皇(96代)が文保二年(1318年)に即位すると再び院政を开始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の亲政が始まる。正中元年(1324年)、崩御。
晩年は後二条天皇の长子(自らの嫡孙)である皇太子邦良亲王の即位によって大覚寺统が早期に一本化する事を望んでいたと言われ、中継ぎに甘んじない後醍醐天皇との父子仲は次第に疎远になっていき、その结果院政停止・天皇亲政に至ったと推测されているが、院政停止は後宇多院自身の希望ともいわれ、なお考证を要する。
諡号・追号・异名
遗诏によって宇多天皇の追号に後の字を冠した後宇多院を奉った。嵯峨天皇の离宫であった大覚寺を再兴しそこで院政を执ったため、大覚寺殿と称され、のちには亀山・後宇多の皇统を指す语にもなった。ほかに御所として使用された万里小路殿や常磐井殿に基づく异称もある。
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